eスクールがつくる未来 ESSAY

2023年9月21日 公開往復書簡 福島勲×市川沙央(1)

専門はフランス文学・思想、表象文化論、文化資源学。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。早稲田大学人間科学学術院准教授を経て2020年4月より教授。

2019年に社会で活躍できる力を身に付けることを目的として早稲田大学eスクールに入学。2023年卒業。2022年度小野梓記念賞受賞、第128回文學界新人賞受賞、第169回芥川賞受賞。

市川沙央さま

 暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
 とはいえ、市川さんにとっては、この夏の記録的な猛暑よりも、3月の卒業前後から始まる身の回りの変化の方がよほど大きかったと思います。それは変化という簡単な言葉ではとらえられない、むしろ転回ともいえるような、世界がひっくり返っていくような感じであったのではないでしょうか。はたから見ている立場としても、一つ一つのニュースを耳にするたびに、現実感が失われるようなめまいを感じていました。しかも、そのめまいが次第に大きくなっていくという……。
 思い返せば、完成した卒業研究の論文を拝読し、2月に小野梓記念学術賞への推薦を決めて、しばらくして選考委員会から受賞の内示が3月に来て、その後に市川さんからの文學界新人賞の内定の連絡があり、そこからはマスコミに報道されながらの芥川賞候補選出、そして受賞……。このHP上で文通を掲載をすることは芥川賞候補になるかならないかの頃に決まっていましたが、その後のものごとの進展とともに、何だかこちらも緊張がじわじわと高まってきてしまっています。
 さて、前置きであまり脱線してもあれですので、本題のほうに少しずつ向かっていこうと思います。まず、何より、文通のお願いを引き受けいただいてありがとうございます。原稿依頼や取材が殺到していて、多分、おそろしいような忙しさのはずですが、快くお引き受けいただいたとのことで、感謝いたします。それで、今回の企画の発案者である早稲田大学eスクール担当者の方からは、せっかくなのでeスクールでの活動も振り返っていただきけたら……とのお願いをもらっています。
 担当者の方も市川さんの熱心な読者ですし、僕もまた、市川さんの今後の作家活動や作品批評に興味津々なのですけども、最初は、早稲田大学在学中の思い出などをお教えいただくことから始め、あとは流れに任せて、また折々にふれて、文学や社会のことなどを自由に歓談していただければと思います。
 たしかに、こう書いてみて気がついたのですが、僕の講義科目「現代芸術論」を熱心に受講していただいたこと、また、芸術・表象文化論ゼミでの活躍については、担当教員ですから当然知っているのですが、その他の授業(『ハンチバック』にも少し出てきましたね)についてや、ゼミ以外での活動については、あまり詳しくおうかがいしたことがなかったように思います。ですので、まずは、専門ゼミと卒業研究ゼミ以外のところで、市川さんが早稲田大学に入学され、在学中にどんな授業との出会いがあったのか、また、どんな教員、教育コーチ、学生との出会いがあったのか、また、授業以外でも学生活動があったりしたのか……など、答えの思いつくところから、印象に残っている範囲でおうかがいできたらと思います。
 久しぶりのお手紙が、お願いばかりの内容になってしまって申し訳ありません。ご返信はお時間に無理のない範囲で、気が向いたとき、思い出したときにいただければ幸いです。 それから、ゼミ掲示板での内輪なリアクションのみとなっていましたが、改めて、小野梓記念学術賞、文學界新人賞、芥川賞の受賞、おめでとう。
 
2023年8月12日
福島 勲

福島 勲さま

 9月に入っても酷暑が続きます。過日は芥川賞・直木賞贈呈式に足をお運びいただきありがとうございました。早稲田大学eスクール卒業から5ヶ月が経ちました。今年の1月末、卒業研究発表会(口頭試問)を終えた私は学業からの開放感と同時に、これで2月以降は本当に何もやることがない膨大な暇時間がやってくる、この4年間でも大きく変えることができなかった無職で無為の人生をこれからどうしようか、多分どうにもならないんだけど、……という、もはや馴染みきった諦念とお疲れさまの気持ちで自分のために取り寄せた冷凍のデコレーションケーキをもそもそと食べていました。ほどなくして福島先生から、卒論を小野梓記念賞に推薦したいとのご連絡があり、その瞬間じんわり込み上げた涙と高揚感を今も記憶しています。あの瞬間から私の人生は不思議なゾーンに入ったようになり、仰るとおり人生の転回と言える気流に巻き込まれて今にいたるのです。それにしても、あれ以来、身にあまるほど特別な知らせを何度も受けてきましたが、人間らしい素朴な感情の動きとして湧く喜びを感じたのは、あの日ご推薦の知らせを受けた瞬間が最初で最後でした。人がまともに受け止めきれる朗報の総量には限度があるようです。
 一生懸命書いた論文が学内賞に推薦されるのは誰だって嬉しいだろうけれど、私という者はとりわけ早稲田大学への思い入れが深いほうだと自負しています。何故ならば私は七歳くらいのとき、七夕の笹飾りの短冊に「早稲田大学に入れますように」とすでに書いていたくらい早稲田に入りたかった人間だからです。確か福島先生は「現代芸術論」の第一回の講義で、愛校精神を宗教に例えてらっしゃいましたよね。あれ、わかりみがありすぎて思わず笑っていました。
 念願叶って入学した早稲田eスクールでの学びは想像通りに充実していました。最初の春学期に森田裕介先生の「情報メディア教育論」を登録したことが特に、自分にとってとても良かったと思っています。教育工学の最新知見を紹介しながら、クラス内のディスカッションで新しいアイデアを見つけていく毎回のインタラクティブな講義がとても面白く、学びの双方向性を最も感じた科目の一つです。森田先生の研究室には私と同じような重度障害を持つ方が在籍していらしたそうで、分身ロボットOriHimeを使って学会発表をした事例などお聞きしました。院内学級や特別支援学校を情報ネットワーク技術で支援することも教育工学の範囲であり、トップレベルの研究室と障害者・病者の世界が研究を通じて関わり合っていることを知れたのも収穫でした。社会にある課題や困難の実践的な解決可能性を探る研究の多さは、文理融合を掲げる人間科学部の特徴でもあると思います。クラスメイトがディスカッションに持ち寄る実経験からもさまざまな気づきが得られました。人間科学部には環境・健康福祉・情報の3学科があって横断的な学習ができるようになっていますが、健康福祉系の科目ではたびたび社会保障がテーマになります。ある時ある科目のBBSで幾人かのクラスメイトが書き込んだ、「家族ともども病院にかかったことがないから社会保険料がただただ不満である」旨のコメントに、生まれてこのかた自分自身と家族の病気と共に生きてきた私は衝撃を受けました。家族みんな病院にかかったことがない人生?! これはおそらく、皆さんが『ハンチバック』を読んで衝撃を受けたと言っているのと同じくらいの衝撃でした。そういう流れもあって、松原由美先生の「健康福祉マネジメント論」の力強さと活気は思い出に残っています。国民皆保険と社会保障の意義を腹落ちさせる松原先生の講義の熱量と説得力! 全国民の必修授業にしてほしいくらいです。
私の大学生活の目的は二つあって、一つはグループホーム経営に必要な知識の習得、もう一つは小説のネタになる教養を積むことでした。加藤茂生先生の「科学史・科学論」は、噛み応えのある重厚な内容で、膨大な知の歴史に脳内を埋め尽くされる快感がありました。地動説を巡るキリスト教と科学の関係性についてステレオタイプな誤解をいまだ持っている方に是非おすすめしたい科目です。
eスクールではオープン科目から他学部の講義を取ることもできますが、コロナ禍のオンライン授業移行の副産物としてオープン科目が豊富になり、よりどりみどりであれもこれも取りたいけれど泣く泣く数をしぼる……というのを科目登録期ごとに繰り返していました。レポートは書きたくないけど講義だけ聞きたいなあと今でも思っています。余談めくのですが、オープン科目から登録した坂庭淳史先生の「ロシア文化と現代」(文・文構)のドストエフスキー回で、中村文則さんの芥川賞受賞後初講演(2005年当時)の新聞記事が資料として配られ、それを読んでいて私は「作家になれた人はいいなあ……あまりにもあまりにもあまりにも遠い!」と、しくしく疼く心で思ったのを覚えています。その一年後に自分の小説が中村さんに読まれて選評をいただけるとは夢にも思いませんでした。あれも何かのフラグだったのでしょうか。
 入学が2019年。2年目からコロナ禍に入りました。私の入学時は、通信制と言えども皆さん対面での交流が活発で、懇親会でLINEを交換して同期会が作られていたようなのですが、私はこの同期会を探すのに苦労しまして……やっと同期とつながれたのが3年目くらい。それが残念と言えば残念です。科目選びなどの情報収集や学習システムの習熟も一匹狼のソロプレイで“ぼっち”な学生生活を送っておりましたもので、福島ゼミに入ってやっと大学生活らしい人間関係を得られた気がしました。

2023年9月7日
市川 沙央